友人がよく使っていた例えに、宇宙戦艦ヤマトの発進シーケンスは工学的におかしい、というものがありました。艦長がおごそかな声で「発進!」と合図すると、他の隊員たちが一斉に「発進!」と呼応しながらレバーをガチャリと操作する、あの一連のシーケンスのことです。確かに、宇宙に戦艦を送り込める技術があるのなら、毎度同じ行動を繰り返すようなインターフェースは廃止して自動化するべきです。もちろん故障時に冗長化した手段を残しておくのは重要ですが、人間というかなり複雑な行動を理解して実行できる上に代替コストが経済的にも倫理的にも非常に高い存在の活用方法としては非効率的です。機械の方が上手にできることなら機械にやらせるべきでしょう。
これと同じように人間という貴重な存在の無駄遣いをしているものを探すと、私たちの身の回りにはいろいろな不合理が溢れていることに気づかされます。例えば、タイムカード。労働集約的な業務には欠かせない従業員の勤怠管理ですが、どうして機械が情報を集めるために人間様がいちいち機械に歩み寄ってカードを入れる必要があるのでしょう。最近ではウェブ上で動作する勤怠管理ツールなるものもありますが、あれこそまさにもってのほかです。PCを起動したらすぐに勤怠ツールにアクセスできるとは限りません。いや、そんなことをする時間があればもっと高度な仕事ができるはずです。人間が機械に出退勤を教えに行くのは間違っています。機械の方が人間に聴きに行くべきではないでしょうか。機械にだってスマホを鳴らして「おはよう、今日は出社しない?上司にはこっちから伝えておくよ!」と面倒な作業を引き受けるくらいのことはできるはずです。ましてや、人間様が機械に奉仕しなかったからと罰を与えるなどもってのほかです。センサーでもなんでも駆使してさっさと実現してもらいたいこのアイデア、権利の25%と引き換えに譲るので誰か実装しませんか?
冗談はさておき(ソフトウェア特許とビジネス特許はなくなってしまえばいいと思います)、機械の仕組みに人間が行動を合わせているケースはたいてい間違っています。しかし、どうしてこんな仕組みがまかり通っているのかといえば、まあそれなりの理由はあります。生き物も制度も常に最適化を目指して進化しているわけではなく、なんとなくうまくいっているものの中で生き残ったものが引き継がれ、まあこれでいいかという段階に止まる傾向があります。頭部というとても重い部位を腰から伸びる背骨だけで支える構造が最適だと考えているとしたら少なくとも建築の仕事はしない方がいいですよね?こういうのをプログラミングの世界では早すぎる最適化問題という言い方をしますが、あんまりきりきりと最適化しようとすると、思わぬところで起きた失敗に大きなダメージを受けるので考えものです。また、まだ工業生産力が限られていた頃には機械に人間を合わせるのは合理的な判断だったはずです。高速道路を先導車付きで走るトラックは巨額の製品を運んでいるので不意に飛び出してきた歩行者を轢く方がまだ安くつくなんて都市伝説もありますが、それはさておき、機械の方が高価という場面は今でも業界によっては残っているのかもしれません。しかしそれも随分と珍しいケースになってきているはずです。
しかし、だからといってなんでも昔のまま我慢すればいいというわけではありません。物事には程度ってものがあります。この数百年の間にわれわれ人類が経験した変化はとても大きなものでした。なんといってもついこの間までは大多数の人間は飲まず食わずのギリギリの生活のことを人生と呼んでいたのに、今では過剰な栄養の摂取を控えないと生活習慣病で死んでしまうようになるという有様です。思えば一口にただ人間が自由を求めるといっても、それは機械のように働かされるなんてごめんだぜと盗んだバイクで走り出して途中コンビニに寄って自賠責保険に加入するようになったこの数十年の自由の概念とはかなり違ったものだったのかもしれません。人間が機械に合わせるのではなく、機械が人間に合わせるべきだというのは、その点でとても贅沢な考え方なのでしょう。でも、あえて贅沢をすることで物事をもう少し先に押し進めることができるのもまた人間が過去から繰り返してきた営為です。よく戦争は技術の発達を促し文明を進歩させるといいますが、だったら贅沢がそれに取って代わるのは悪い話ではないと思います。
そんなわけで、これからのソフトウェアは、人間が機械に奉仕させていると思われる箇所を可能な限り逆にしていくのが、巷でいうところのDXだのUXだのの向上につながり、人類の発展に寄与し、やがてスカイネットを生み出すはずです。