人間は考え事をするときに頭の中で複数の人の声で会話のようなことをしているという話を聞いた事があります。専門家ではないので詳しくご存知の方に教えていただきたいのですが、確かに経験的にもそれは正しいことのように思われます。先のリンクのスレッドからの引用ですが、人は考えるときに頭の中でこんなことをしているのだそうです。

意思決定とかの場面で、他者のモデルが登場してきて、そのヒトだったら、きっとこう言ってこう振る舞うだろう、とか、視覚的・聴覚的に頭の中で登場してきて、ビビッドにシミュレーションされる

文字通り頭の中に他者のモデルを作成して、まるで人工知能のように喋らせているかのようです。こうして他人の考えを吸収して自分のものにしていくというプロセスにはなかなか興味深いものがあります。というのも、歴史を振り返れば、例えば人間は文字の発明により自分たちの経験や考えを書物などの形に残して伝達することが可能になり、その結果、大量の経験を積む行為を省略しながら過去の議論や発明を参照し、その上にさらにそれらを発展させ、そして後世に伝えていくことが出来るようになりました。これにより、一人の人、一つの世代がいつも最初から物事をやり直すことなく、「巨人の肩の上」を足場に新しい取り組みを始めることが可能になったというわけですが、それがなければ人間はいつまで経っても飛躍的な進歩を遂げることはなかったでしょう。海に暮らすタコは高い知能を持っているといわれています。サッカーの試合の予想までするのは眉唾ですが、少なくとも数をかぞえたり、鏡の中の自己を認識するなどの高い能力があることは確認されています。しかし、残念ながら人間に比べて寿命が短く、また言葉を持たず獲得した知恵や経験を次世代に伝える方法がないので、その高い知能を活かして高度な文明を築くようなことは出来ません。

こうして、人間は言葉を伝達することにより飛躍的な発展の手段を手に入れたわけですが、面白いことに、このようなショートカットは人類が言葉を操るようになってからずっと使われてきたものであり、また今でも似たような手法で私たちは日々自分たちの能力を拡張・補強し続けています。例えば、私たちはもう大概の知識がそれ自体について詳細まで暗記していなくても、どうやったら検索可能であるか、或いはどうやったらちゃんとした情報にたどり着けるかさえ知っていれば、簡単に暗記している人と同等のパフォーマンスを発揮できることを知っています。もちろん暗記それ自身にも大きなメリットはありますが、それなりに高度であったり特殊なケースを除けば、どうやってそれが検索出来るか知っているのと覚えているのとではそれほど大きな差はないというレベルにまで達している事柄もたくさんあります。

先のTweetで面白かったのは、このような人間の能力の拡張が、私のようなうっかりモノにはGoogleなどの検索技術の発達とスマートフォンに代表される携帯可能な情報端末により初めて実現した人間の新しい世界のように思われたのですが、実際には昔ながらの人間の機能であったと気付かされたことです。人生は一度きり、というのは古くはヨハン・シュトラウス2世のワルツであり、また匿名浮気サイト(データベースの中身が流出して大変なことになった)のキャッチコピーでもありましたが、まあある意味でその通りではあります。しかし、他者のモデルを脳内にシミュレーションすることで、何かについて意思決定する際に効率よく「他人の受け売り」をすることが可能になります。いうなればみんなが「ボクは別にいいんだけど、YAZAWAがなんて言うかな?」を地でいくような人間になるというわけです。

そういうものか、と思った他人の見解を、それを持つに至るプロセスを省略してさっさと自分のものにしてしまうという学習は、大変効率のいい方法です。また、効率がいいだけでなく楽でもあるので、そのために私たちは繰り返し投げつけられる意見なども同様にあまり考えることなく取り込みながら生きてしまう傾向があります。ガミガミ叱られながら育つ人は誰かをガミガミ叱りがちになり、みんなに蝶よ花よと大事にされてきた人は他人を疑うことを知らず騙されるわけです。自己の意見を確立して他人に流されないようにしなさいと注意する慣用的な言い方に「自分自身になりなさい」というものがありますが、個人的には可能ならビル・ゲイツになって彼の預金を共有できた方がいいですけれども、これは思った以上に難しいことだといえます。

思考の過程で他者を脳の中でモデル化してシミュレーションするというのは、いうなれば他人の意見や価値観、振る舞いをあたかも自分のものであるかのように内面化するプロセスともいえるでしょう。この内面化というやつは大変強力で、それこそ文字通りに「自分自身になった」つもりでいても、お釈迦様の掌で弄ばれる孫悟空のようにともすれば私たちは内面化した他人の影響下にいたままそれに気づかずに過ごしている可能性があります。ひょっとすると、多重人格や統合失調症のような様々な狂気は実はこのような他者の内面化の過程で何かおかしなことが脳の中で起きたために一人の人間としての統一性が保たれなくなっただけの現象であるのかもしれない、なんて想像もしてしまいます。もちろん、適当な空想ですが。

それに、こうして学んでいく過程を追いかけると、そもそも自分自身などというものが存在し得るのかという疑問にも行き当たります。少なくとも、それは他人の混合物であり、トリスタン・ツァラがいうように、言葉のブイヤベースなのかもしれません。まあそれでもいいかなとは思いますが、私たちの自由意志はどこまで自分自身のものといえるのか、少し不安になってきます。

またふと思うのですが、私たちはひょっとしたら、この内面に巣食う他者というやつに、随分と長いこと付き合って慣れてしまったので、時々この連中を棚卸してあげないといけないのではないでしょうか。そこには、含蓄を含んだ重厚な経験の賜物だけではなく、慣れない子育てに悩み忙しくてうっかり子供を怒鳴りつけてしまった親の怒声であったり、冴えない己の人生を僻んだどこかの誰かの悪意に満ちた台詞が鳴り響いているかもしれません。ちょうど検索結果に情報弱者を騙して金を儲ける連中が忍び込ませる偽情報が溢れているように、そこには少なからずノイズが入っているとみて間違いありません。一般的に認知の歪みというのもこの辺りのタチの悪い連中が作用しているように思われて仕方がないのですが、これもまた詳しいことは専門外なのでわからず、何か関連する書籍があればじっくり読んでみたいものです。

とはいえ、頭の中から都合の悪い他人を追い出すのは、決して容易なことではないでしょう。大人になるというのは、そろそろそんな雑多な経験に少し自身の色付けをして(したつもりがまた取り込んだ他人の声に影響されて失敗するかもしれませんけど)取捨選択をすることでもあるので、大勢の人たちが日々頑張って入るのですが、靴紐を引っ張っても空を飛べないように人は完全に客観的に己の内面を見ることなどできません(出来ると言ってる人は嘘つきです)。私たちは一人一人がそれぞれ大層貴重でかけがえのない存在ではあるのですが、オリジナリティという点においては残念なことに大した個性を持ってはいません。どうにかして単純な記号や言語のやり取りで自己表現しますが、用いられる手段はいずれも共有のものであって、多少その使い方に癖がある程度の違いしかありません。「自分らしくあれ」という言葉自体が使い古された他人のものであるわけですから、無理もないでしょう。人は生まれてからずっと言語や習慣、社会的な振る舞いなど様々なことを学び身につけていくわけですが、その大半が模倣により学習されたものであるように思われます。そして、内面化された他者の声というのは、この模倣という手段の、大きな副作用だからです。

じゃあどうすりゃいいんだよ、と読者の皆さんの叫び声が聞こえます。実際には叫んでいないけど、あなたは読者なので筆者である私には何も抵抗はできません。今や世界的に有名な捨て魔マリエ・コンドーならspark joyで決めるのでしょうが、そのspark joyが他人のspark joyかもしれないのですから大ピンチです。そこで、こんなアプローチはいかがでしょう。何が究極的に正しく、何が究極的に間違っているか、そんなことはどうでもいいではありませんか。きっとペンギンの雛をいたぶり殺すことは悪です。日の当たる縁側でお婆さんの食べようとしていた弁当を盗むのは悪いことです。逃れられない良識の牢獄の中で、牢獄の快適さを増すだけになるかもしれないと知りつつ、くだらない相対主義には負けないで、自分自身を愛し誰かと愛し合いそれを否定する他者の声を自身の中から追い出すだけで、まあ結構なことだと思いますよ。いつ完了するかはわかりませんしきっといつまでもしないのでしょうが、それを目標にもがき続けるのが、人生なのではないでしょうか。

ちなみに、合同会社合同屋は、以下の3つの目標を掲げています。

  • 平和に生きて
  • 燃えるように愛して
  • 電話の通話料を下げる

そのために何かをしようと思ったときに、自分の中でそれに反対する声、やる気をなくすような声を発している他者を見つけたら、テニスラケットで引っ叩いてやればいいと思います。全力で、優しく、丁寧に。時々、そいつが自分の顔をしていることがあるかもしれませんが、鏡なんて「汝自身を見誤れ」ですから、遠慮はいりません。とシンデレラも言ってました。