Newsweek日本版に「学力よりも性別で年収が決まる、日本は世界でも特殊な国」という記事が出ていました。OECD加盟国等24か国・地域が参加して行われた調査をもとにしているので「世界でも特殊」というと少し語弊があるかもしれませんが、日本の女性の高学力群が男性の低学力群よりも稼ぎが少ないのは3カ国だけということなので、少なくとも先進国の中では特殊だといえるでしょう。

しばらく前に、日本の大学の医学部の入試で女子の受験者の方が実際の点数よりも減点されているという問題が発覚して話題になりました。衝撃的なニュースですが、これは昔から行われてきた慣習であり、業界では公然の秘密であったという事実もまた大きな驚きでした。筆者は医学界の人間ではないので世に出た記事からしか窺い知ることの出来ないことではありますが、少なくともこれが公正な扱いであるとは言い難いのは理解できます。

差別というのは行為としては体系的に捻じ曲げられた認知であったりコミュニケーションであったりするわけですが、それでも見落としてはいけないのは、これがスキャンダルとして報道されたという事実です。つまり、多くの女性たちにとってその人生の大きな岐路にあたって進路の選択に決定的な(負の)影響を長年にわたり与えてきたであろう点で遅きに失したとはいえ、これは差別であり、性差別というのはよろしくないことであるというコンセンサスは社会に広く共有されているのです。

今どき、たとえ当人がどんなにみっともないほどに無知であったとしても、それなりの地位のいい大人が女に学歴など不要だとか理系の分野に進学するべきではないと言い出せば世間の非難を浴びることは避けられません。実は筆者がまだ学生だった90年代にはこのようなことを口にする父親は珍しいと言えなくもないけれどもまだまだ結構いるという程度には実在していました。つまり、世の中は少しずつとはいえ着実に変化しており、性差別の解消という意味では、まだ不足している点は大いにあれど、やはり進歩してはいるといえます。

しかし、だからといって問題がないというのは明白な誤りです。例えば、その進歩の度合いと不揃いな進み方をみても改善は不完全かつ不十分です。冒頭の女性の収入についてもそうですが、大卒・院卒女性のフルタイムの就業率は15歳の子供がいる家庭を調査した場合でも多くても40%程度しかありません。その反面、専業主婦である割合も下がっているのですから、この層の多くの場合が非正規の雇用に吸い込まれていることが伺えます。女性の活躍できる社会を政府が標榜する一方で、肝心の政府にはごく僅かな女性しか参画できておらず、またそれを報じるマスコミ各社も採用ページにはいかに女性の働きやすい職場であるかを宣伝しておきながら、役員の一覧には初老の男性ばかりといった具合なのは皆さんもご存知の通りです。

このような一見してわかるほどに偏った状況を見ると、そこに何か大きなどす黒い陰謀のようなものを予感してしまう人も少なくないと思います。実際に医学部の入試における不正などはその証拠として報じられた向きもあったかもしれません。でも陰謀論が何かの役に立つことはあまりないので、出来ればここはしっかり踏みとどまってこの世界の現実との繋がりを断ち切ってしまわないようにしたいものです。

そんな時には、非合理に見える事象の中にもちゃんと合理性があり、人々の選択はある面では合理的であるということを思い起こすべきです。例えばこの医学部における女性の冷遇は合理性という面では一定程度理解できることだという報道にも注意を向けてみましょう。医学部の場合、女性の冷遇の理由として挙げられていたのは、外科のようなハードな仕事は女性には難しいのではないか、あるいは長期間のケアが必要なケースで出産のように長期間の離脱がある場合、十分な仕事ができないのではないかといった点でした。確かに医者の労働環境はあまり良いものではなく、だからといって現状を追認する必要はないだろうという点を除けば、これらの意見にも一定の合理性はあります。いや、慌てないでください。それが正しいという主張を展開したいというわけではありません。重要なのは、どこかの年を食った性差別の豚みたいな連中が権力にあぐらをかいて女性を貶め続けているのだというような世界観は本当に事態を改善しようとする際には邪魔になるということです。人間は非合理を選択する場合でもそれなりに合理的であり、そこに潜む認知的な歪みを理解しないことには事態を改善するのは難しいのです。差別はときに配慮の形をしている、と指摘するのはさほど難しいことではないのですが、それ以前のレベルにまで己の身を落として、何もかもは差別主義者が己の姿を隠して嫌がらせをしているのだと考えるとしたら、それは単純な性差別の裏返しでしかなく、その上に築き上げることができる政治的主張はあんまり強靭なものにならないと思います。

さて、医学部の話に戻ると、多くの医者には「ハードワークに耐えること」「長期休暇で患者の治療計画に影響を与えない生活を送ること」といった評価基準が適用されているわけですが、これらの基準には、少なくとも字義の上では、かつては迷うことなく口に出され世間に広められていたような「女性は知的能力が劣っている」といった混じり気のない差別というものは存在せず、むしろ差別的な意味合いはそこから綺麗に削り取られているという特徴があります。と同時に、言外の意味として、平均的に体力があり、出産などのイベントでキャリアが中断されることがない男性に有利であるという、性差別を助長するニュアンスもきっちりと帯びています。このような言葉の厄介なところは、それを口にする人たちが全く性差別のことを意識することなく用いることを可能にしながら、それでいて言外の意味をきっちりとばら撒いて広めていく点にあります。

このような意識と実際の行為とのズレについての典型的な例は女性が活躍できない会社の人事考課にも見受けられます。役員の選別をこれまでの業績を基準に判断するなら、キャリアに中断がなかった人の方が有利になります。あまりご存知でない方のために一応説明しておくと、みなさんも記憶の以前に当事者として体験されたであろう出産は、入院して退院すれば徐々に体力が回復し職場復帰できるような盲腸などの病気とは違い、多くの場合まずその前に数ヶ月に及ぶ心身の変化があり、直後に始まる急激な体力の低下や更なる体質の変化が待ち構える、そしてケアなしには生存さえできない上に他人の都合についてはとんと関知しない人物が生活の場に数年間居座る事になるというちょっと想像を絶するような大きなインパクトがあるイベントです。そのようなハンデを考慮せず、人は皆平等だと呑気に思い込んでいるなら、業績ベースの判断は大変公平かつ公正なものに見えるでしょう。しかし現実にはそのように思い込むことでキャリアを中断する選択をした人たちを言外に排除していることになります。もしあなたが心の底まで自己責任論に染まっているなら、そんな選択をした人がその責任を負うべきだと思うかもしれませんが(そんな単純な人だからそんなものに染まってしまうのかもしれませんが)、子供を持つことは義務ではなく権利であり、権利である以上は守られなければならず、またそこに生じるトレードオフについて私たちは認識を共有するべきではないでしょうか。つまり、子供を持つという同じことを希望した場合でも男性と女性にはその負担には大きな差があり、当然の権利を行使した場合にキャリアに与える影響が異なるため結果として差別的な待遇が蔓延しているわけですが、それはどこまで正当化することができるものなのかという議論は続けていかなければならないものです。もっとはっきりいえば、労働環境を変えてでもそれは達成するべき目標なのかという問題を誤魔化すことなく議論すべきだということです。

とはいえ、本稿は企業ブログであり、あまり誰にも読まれていない上に影響力も少なく、というのも一つの小さな企業にできることはさほど多いわけではないので、こうした話題は手に余るところではあります。しかしこのような人事考課に潜む言外の差別について考え、せめて対策することくらいなら可能です。世の中全体が変わることはなかなか期待できませんが、評価基準に差別が潜んでいるなら、この会社では評価基準を見直して、うちの会社で働いているなら、あたかも世の中が良くなった後の世界を生きるかのように生活することができるよ、というわけです。今は社員が一人しかいない会社なので、次の採用の時に頑張ればいいんじゃないでしょうか。

営利企業のミッションの一つは常に「利益を最大化する」ことですが、一口に「利益を最大化する」といってもそこにはさまざまな意味合いが含まれます。キャリアを中断せざるを得ない性別の人間を排除することで「利益」を「最大化する」ことも可能かもしれません。しかし、少し考えると、そのような事態を避けることで優秀な女性の就業を促して、その結果として「利益」を「最大化」することもまた可能だとすぐに気づきます。差別的な扱いから長い時間をかけて直接的な差別の意図を取り去っていくと、実は私たちは利害やトレードオフについて本当はきちんと検討できていないのかもしれないという情けない自身の姿を見出してしまう事態になるのかもしれません。

先日そのあたりの問題について書かれた面白い文章を読んだので共有します。