プロジェクトの管理の現場では、最近ではアジャイルだなんだとスクラムなどの手法を取り入れることはかなり一般的になってきています。物理的なポストイットを並べたホワイトボードやファンシーなプロジェクト管理ツール、或いは昔ながらのExcelのシートをみんなで眺めながら、毎朝進捗の確認があり、誰かが余計なことを言ったり言わなかったりしていることでしょう。
おそらくこの世にはスクラムについての書籍が数百冊出回っていて、オンライン講座は毎日無数に開催されており、いずれの内容にも大差がなく、きっとどこかで誰かの役に立っているのだろうと思われますが、その中に「怒り」について扱われているものがどれくらいあるでしょうか。というのも、これまでの経験から、怒りというものがプロジェクトを阻害するケースを見かける頻度はちょっと見過ごせないほど高いと感じられるからです。
プロジェクトを回している中で、怒りの感情を抑えられない人を見かけることがあります。スクラム講座のような温室栽培の緩いプロジェクトではなく生活のかかった本物のプロジェクトの現場では、進捗が悪かったり、満足いく回答を出せなかったメンバーに向かって露骨に怒りの感情を表す人がいます。特に正義感の強い曲がったことの嫌いなプロジェクトの管理者だったりする場合に、その怒りは大きなものになりがちです。
そんな人たちの怒りはとても正しく、きっと理路整然としくじった人を責めたてるでしょう。そのゆるぎなき正しさのために、ひょっとしたら光り輝いているかもしれません。そして大変にロジカルで、賢く、ええと、とにかく正しいわけです。
しかし、そもそもプロジェクト管理における最大の正義とは何なのでしょう。例えば、あらゆる進捗管理を無視したメンバーが、なぜか最小限の努力で期日内に成果物を完成させてしまった場合、そのプロジェクトは成功したといえるでしょうか。これは難しい問題です。秩序を重んじる人はこれを成功とは呼ばないかもしれませんし、もう少し真面目な人なら、一旦成功としながら、管理手法とプロジェクトの内容や成員がミスマッチを起こしていたのではないかとこれまでの経緯を見直すかもしれません。いずれにせよ、プロジェクトの正義とはその進行状況にあるのか、それとも成果にこそあるのかという観点で考えると、そこには大きな価値観の対立があります。そして、そこであくまでこれまでの管理手法を正しく遂行することに価値を見出してしまうなら、正しいことを語りながら愚かなことをしてしまう、愚かな頑張り屋さんになってしまいます。なぜなら、あらゆるプロジェクト管理の手法の意義は効率の最大化とリスクの低減にあるのであって、そのターゲットは常に動いているのですから、現状に合わせて最適化し続けるべきだからです。
さて、残念ながらプロジェクトの場で怒る人が繰り出すお見事な説教には、実は一分の理もありません。もちろんその揺るぎなき正義のために、時と場合によっては光り輝きながら喋っていることさえあるでしょう。でも、だからなんだというのでしょう。その瞬間、その人は正義と引き換えにプロジェクトのエネルギーの総体を減らしてしまっています。あらゆるプロジェクトは手持ちのメンバーで実行するしかありません。それぞれのメンバーの力量には限界があり、それはただでさえ有限な資源なのに、何かをしくじったくらいでわざわざご丁寧にそのメンバーのやる気を挫いていたら、まるで手持ちのカードのキングの札をわざわざ役立たずの6か何かに交換するようなものです。どんなに正しいことを口走っていようが、やっていることは滑稽極まりありません。だったらその人が一人で仕事すればいいのです。
もちろん、怒り心頭に発する正義の人ならすぐさま反論するでしょう。いわく、一時的なパフォーマンスの低下と引き換えにしてでもプロジェクトの秩序を乱しモラルを崩壊させる要素は排除するべきだとか、もっと単純に、例えば「それでは示しがつかない」なんて言い返されるかもしれません。でも問題なのは怒りが正当化できる理由ではなく、怒りを正当化して他人にぶつけている行為そのものなので、その手の反論は無意味です。結局、あなたには手持ちの人員でなんとかプロジェクトを遂行する以外の選択肢はなく(あれば替えたらいいんじゃないですかね、プロジェクトはもっと遅延しますが)、その中で全員が最大のパフォーマンスを発揮するのが理想であることに違いはありません。それに反する行いは全て無駄なのです。プロジェクトが遅延することを怒ってプロジェクトの速度を落とすなんて、殴られたからといって自分でももう一発自分の顔をパンチするようなものです。こんな言い方も酷いですが、ちょっと気持ち悪いです。
でも、まあその怒りの理由ももっとであるという点もまた事実ではあります。結局のところ、悪いのは怒る人の怒りの発露の仕方であって、それを他人に当たり散らすのではなく、もう少しマシな方向に持っていくことでなんとか裏で誰かに愚痴るくらいで済むような程度のコントロールすることは出来ないでしょうか。ちょっと嫌味な言い方ですが、他人に怒り散らすくらいに正義感が強いのであれば、その力を少し違う方向に向けるだけで簡単にできるはずです。
ここまで読んで、過去に自分が業務で参加した、或いは現在参加している具体的なプロジェクトのことを思い浮かべている方も多いかと思いますが、上記は全て家庭内で起きた子供の夏休みの宿題やテスト前の勉強の管理についてのお話です。職場では優秀なプロジェクト管理者のあなたでも、家で子供の宿題をみる際にはうっかり碌でもないプロジェクトメンバーに成り下がってしまっているなんてことはありませんか?我が家でも進捗がなかなか出せないメンバーに対して説教したりマイクロマネージメントに陥っている管理者の姿が散見されるようになり、改めてプロジェクトの進行について大幅な見直しを実施しました。
改革はまず、権威主義的でいい加減なプロジェクト管理体制を打破することから始めました。プロジェクト管理者がプロジェクトの具体的な詳細についてあまりにも無知であったことを反省し、手始めに「今日のやることを(ゲームなどの娯楽の前に)済ませておくように」といった具体性に欠ける指示を撤廃しました。プロジェクトにおいて曖昧な作業指示ほど致命的な間違いを誘発するものはありません。せめて「今日は教材『理科の学習ノート』のP.34からP.37までの問題を最初は自力で解いてみて、その答え合わせをしてから、間違えた箇所を教科書『理科の完全理解』の該当箇所を見ながらやり直しなさい。完了したら親にノートを見せて終了のサインをもらうこと」くらいの具体的な指示なら、内容の理解に齟齬が生じる心配はかなり減るでしょう。コミュニケーションの行き違いほど世の正義漢たちの怒りを誘発してしまいがちです。また、終了条件に確認のプロセスを入れたことで口頭での完了報告を撤廃し、虚偽の報告がそもそも不可能にすることで感情的な諍いを減らす効果もあります。もちろん、模範回答を丸写しするなどの誤魔化しはいくらでも可能ですが、案外と模範解答の丸写しでもそれはそれで学習になることもあるので、気になるようであればチェックしてもいいですが、必要に応じて対策する程度で構わないでしょう。そして大事なのはこのような作業指示や進捗の確認は可能な限り毎日決まった時間にやることで習慣化し、作業のリズムを作り出すことでメンバーの心理的な負担を軽減することです。週に一度くらい気まぐれに声をかけてその成果が期待以下であればギャアギャア叱るなどもってのほかです。最初は難しいかもしれませんが、子供の学年が低いうちはその作業内容も簡単なものばかりなので、慣れると毎週末にタスクの大まかな管理をするだけで毎日の作業指示の作成もルーティーンワークで済ませることができるようになります。また作業指示に際しては決して威張って命令するのではなく、いつも頑張ってえらいね、今日も頑張ろうね、親の方も今日はこんなことするから、終わったら一緒に美味しいものでも食べようか?といった会話でモチベーションを高めてメンバーの努力を後押ししてあげることを忘れてはいけません。
本来、仕事も勉強も本質的に苦痛なものとは限らず、実は結構楽しいことであったりするんですよね。特に、それが自分の意思でやっていると感じられる環境であれば、仕事は少なくとも強いられた苦行ではなくなります。自身が奴隷であることに奴隷に気づかせるのは悪い奴隷主です。じゃなかった、共感によりモチベーションを管理すること以上にメンバーの力量を最大限に発揮させるのが難しいソフトウェア開発のような複雑なプロジェクトや受験勉強のように面倒な作業では、怒りの発露は無駄であり、有害であり、どんなに正当化しようとも余程のことがない限りは褒められたものではないのです。
出来の悪い子ほど可愛いという言い回しがありますが、あれは出来の悪い子ほど親がその子に手をかけてしまうという事象を表現しているのではないかと思うことがあります。ああ、この子はまともに自転車も乗れないのだから、塾に通うのにも親の送り迎えが必要に違いない、といつまでも車を出して子供を送迎したりするわけです。プロジェクト管理もまた同じなのかもしれません。
“Anger is an energy! Anger is an energy!” “What is anger?” “Anger is an energy!”